1965〜1966

「チキンラーメン」はただ1つ。製法特許を出願し、類似品を追放。

「チキンラーメン」のヒットに便乗して、多くの類似品が横行した。 日清食品は、意匠、商標、特許への侵害に毅然とした態度で臨み、 自らの知的財産権を守った。

相次ぎ発売されたインスタントラーメン
「チキンラーメン」のヒットで、インスタントラーメンブームが起こった。

当時の新聞記事 (関西食糧新聞、1960年3月11日付)
商品名が同じで、パッケージデザインも酷似した類似品は、新聞でも話題になった。

1958 (昭和33) 年8月に発売した「チキンラーメン」は、問屋の予想に反して大ヒット。二匹目のドジョウを狙って、類似品が続出した。その中には「チキン」の名称を使用し、パッケージデザインがそっくりなものもあった。
こうした事態を招くことになった原因の一つは、安藤百福が頼まれると快く工場内部を公開し、製法についても詳しく説明したことにあった。インスタントラーメンの存在を多くの人に知ってもらおうとした行為が裏目に出たのだ。商道徳を大切にしてきた安藤にとって、ショックは大きかった。
類似品に対処するため、1959年7月に意匠権を取得、係争中であった商標の著名性についても1961年7月に決着し、「チキンラーメン」の名称は日清食品だけのものであることが認められ、同年9月に商標登録された。

瞬間油熱乾燥法 (しゅんかんゆねつかんそうほう)
1962年6月に特許権が成立した日清食品の「即席ラーメンの製造法」における技術の要が、「瞬間油熱乾燥法」であった。

さらに、1961年から1964年6月にかけて2度に及ぶ製法特許係争があり、インスタントラーメン業界は大きく揺れた。日清食品の「即席ラーメンの製造法」とA社の「味付乾麺の製法」は、1960年11月に特許公告されたが、A社の製法を支持するメーカー10社が、日清食品の特許に異議申し立てを行ったのである。しかし、これは、特許公告中であったA社の製法を日清食品が買い取り、解決した。
もう1つの係争は、1962年6月に日清食品の製法特許が確定した後に起こった。日清食品とほぼ同じ内容の製法で特許を出願したB社が、日清食品の“製法特許独占”に異議を唱えた。しかし、この係争も1964年1月に和解し、長い特許係争に幕を下ろした。
以後、日清食品の使用許諾を得て、インスタントラーメンを製造する会社は61社に及んだ。これによって安藤百福の「野中の一本杉であるよりも、森として発展した方がよい」という思いが実現することとなった。

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